写真と創作とストレスの溜まり場

写真と小説、そして、ちょっとしたお話のブログ。

救いの手は差し出されるのか

突然ですが、

皆さんは『救いの手』って信じますか?

(決して宗教じみたようなことは言いませんが)

 

私は一応、信じています。

誰に何を言われようとも、たぶん信じ続けます。

 

そりゃあ、嫌なことがあって、悩んで、苦しんで、自分が嫌になったり、周りを見て絶望したり、そんなにつらい経験をしているのに何も救いがないって言うのは酷すぎるからですね。

私だって好きで悩んでいるわけではありません。

もっと幸せになりたい、もっと上手くなりたい、もっと、もっと、と辛い今を変えるために悩んでいるのです。

誰しもそうだと思います。

 

ある人に言われました、『お前はメンヘラな自分が大好きなんだ』、と。

その人にとってはそう見えるのかもしれません。

でも、誰も批判的に言われるために「メンヘラになろう」と思って自発的にメンヘラになる人はいないと思います。

「メンヘラになりたい」と言ってなる人は、自分の特性としてキャラとして自分を引き立てるためになりたいと言ってるだけです。たぶん。

 

というか、「メンヘラ、メンヘラ!」と騒ぎ立てて何の利益があるんですか?

本当にメンヘラな人を見て嫌なのであれば、精神科を勧めるか、相談に乗るかしますよね?

世の中、特に日本では「一般的じゃない」「常識から逸脱している」「見た目が違う」ただそれだけの事で集団から排除したいという人が多いのです。

別に、今の世の中、人と違う事(もちろん犯罪を除く)をしても『村八分』なんてされませんよね?

確かに集団の和はトラブルを回避するためには最適の手段かもしれません。

ですが、集団の和を守るために行う排除運動・排斥運動という行為は、結局、トラブルを生んでしまいます。

 

すみません。話が脱線しましたね。

私は最近、自分を信じることができなくなってきました。

自分の得意だと思っていたことは、周りに比べて劣っている、と。

昔のように、情報が行きかっている社会じゃなければ、神絵師と解析する機会も少なく、井の中の蛙を極めてしまい、井戸の外に出ても恥ずかしくないくらい立派なカエルにもなっていたかもしれません。

だからこそ、自分は何をすべきなのか。自分には何ができるのか。

いっぱい悩んでます。

一般の人がどれくらい悩んでいるか分からないですけど、「メンヘラ」と呼ばれるくらいには悩んでいるという事ですね。

というか、メンヘラが何をしたっていうんd……おっと、心の声が漏れかけた。

 

世の中は、何も考えずに生きていればいるほど悩みも少ないのかもしれません。

ですが、何も悩まない人生なんて壁にもぶち当たってないし、何もしてないわけだから、薄っぺらい人生です!!

だからこそ、悩んで自分の人生をより良くしよう。さらには、世の中をよくしようと本気で悩んでいる人にこそ、「救いの手」というのは差し出されてもいいのではないでしょうか。

 

すこし長い記事になってしまいましたが、本日はここらへんで終わりにします。

駄文。愚痴。色々と失礼いたしました。